『皮肉』の意味と語源。『皮肉』のどこが皮と肉で出来ているのか?
遠回しな嫌味のことを「皮肉」と言うけど、
よく考えたら、なんで「皮」と「肉」?どこから出てきたの?
と、いう事で、ちゃんと調べたのでまとめます。
言葉の意味
まずは、言葉の意味を確認。
「皮肉」自体は
- 事実と反対の事を言うなどして、意地悪く遠回しに嫌味を言う事
- 物事が期待通りに進まず、都合の悪い結果にばかりなること
といった意味の言葉です。
しかし、どこにも「皮」も「肉」も登場しませんよね。
なのになぜ「皮肉」と言うのか?
語源は「皮肉骨髄」
というわけで、語源を調べてみた。
本来は仏教語で、中国禅宗の始祖達磨大師の「皮肉骨髄」の語による。大師は、弟子たちの修行の程度に応じて「我が皮を得たり。我が肉を得たり。我が骨を得たり。我が随を得たり」と評した。これが「皮肉骨髄」で、大師の身体、その信念・思想・行為のすべてをいう。「皮肉」はそのうちの皮と肉をいい、骨髄(本質)にまで達しない表面をさす。これが転じて、欠点や弱点を意地悪く遠回しに非難し、あてこすることの意となった。
『暮らしのことば新語源辞典』(講談社)より引用
ふむふむ。
『皮肉』は元々は、皮・肉・骨・髄とある内の「皮」と「肉」のこと。
表面を指す言葉であり「本質にまで達していない」という意味の「皮肉」だったと。
上っ面だけで本質には達していない、というのが「まだまだ未熟」ということで相手の欠点や弱点を非難する意味合いとして使われるようになっていった、という所だろうか。
非難するといっても、遠回しに、ということだから、直接「まだまだ未熟だな!」とか「お前は本質に達していない!」とか言ったわけではなく、
言葉の上では褒めてるけど、実際には「本質には達していない」と非難する内容だという事ですね。
達磨大師の話も、あくまで弟子を評する際に「我が皮を得たり」「我が肉を得たり」と言ったとのことなので、まさしく言葉の上では褒めてるわけですね。
達磨大師が非難する意図で言っていたのかはわかりませんが、
「我が皮を得たり」「我が肉を得たり」というのも
「お前も大分私の真似が上手くなってきたな!」
という達磨大師流の「皮肉」だったのかもしれませんね。
なるほどね~。
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